「高いモチベーションを持ち、それを維持すること、維持することに対する情熱」
というのが、今回の「あなたにとってプロフェッショナルとは?」という質問に対する33歳でフランス料理の三ツ星シェフの答えだった。
NHKのこの番組は、自分のやる気を搾り出すために大変役に立っている。だらだら2時間勉強するよりも、1時間この番組を見て、残り1時間勉強するほうが、その倍の効果はあると思う。
この若い料理職人の方が、
「100年、200年続いている事を、そのまま継承することが、時代の流れから来る要求に対して、疑問を感じる」
というような(正確に覚えていないので曲形していると思うが)ことを言われていた。
私もそれに同感である。
伝統を否定するつもりは全くない。「伝統」と呼称されるまでに、幾人もの先人が試行錯誤を重ねて、自分の仕事に真摯に向き合って、これはこうあるべきという理想をしっかり持って、要求に応じた品質を作り上げて、社会から尊敬と信頼を得てきたのだと思う。だからそれに対して、私は足蹴にするつもりもないし、その点に関して否定する気も全くない。過去の偉人の業績に敬意を評するものである。
しかし、時代が変われば状況も変わる。
大切なのは、変わっていくことに自分の順応していかねばならないということだと思う。
私の地元でも、焼き物が有名で、伝統を引き継いだ職人たちが、信頼を裏切らぬ高品質の陶芸品を作り上げている。この陶芸品というものも元を辿れば、食器類等身近な生活用品を中心に製作していたのだと思う。現在の状況はともあれ、もともとそういった需要の中で芸術まで昇華されていったのだと私は推測している。
仕事の性質によって、今のままではこれ以上のものを作ることはできないという壁は、どこにでもあると思う。そのいった状況の中で、分裂していったものが、芸術と称されるものなのではないだろうか?普段の生活から少しかけ離れた状態で評価されるという点で、この芸術というものを非難してしまうことになるのだが、ここは私の言葉足らずのところである。
一方、実生活において、食器類は、今や植物からも作ることが技術的にも成功し、コストや環境対策の面でも評価される部分がある。私は、広い意味でこの技術的進化を「伝統」と呼びたい。
今まで生きた経験からか、伝統という言葉を聞くたびに何か冷めた目で見てしまう自分がいる。伝統の中から生み出されるものは、社会が評価するのと同じように私が評価できるもののいっぱいあるのだが、それでも伝統というと、冷ややかな視線を抑えることが出来ない。
それは
「伝統に固執する」
という本音が薄っすらと見えてしまうからだと私は思っている。
伝統とまで持ち上げられたものは、それである一定の評価をされると思う。歴史もあるし、その苦悩と努力から導かれた価値あるものがそこにしっかりと存在するからである。しかし、私は「それは過去のものなんじゃないの?」といつも嫌疑の念を抱いてしまう。人の尊厳と価値観に抵触する部分に当たるので、この考えを正面からぶつけることに、私は勇気があるわけでもないし、わずかな理性を持ってそれを抑えることも出来るし、それを否定された時に真っ向と自分はどう考えているのかという強い意志を示すことも出来ないので、これを自分の中に抑えてきたし、これからも軽々に口にする言葉ではないとも思っている。
確かに伝統は強い力を持っていると思う。ノウハウの結晶であるし、多少のことではぶれない強みがある。しかし、そこには柔軟性という面で明らかな乏しさはある。一つの点に特化したことによる他の環境に対する適応力に欠ける弱みがあると思う。
鳥から例を挙げると、孔雀のようなものだろうか?孔雀がどれだけの滞空時間を持って飛行できるかしらないが、求愛行動のために進化したあの尾は、皮肉をもっていえば、実際生き延びていくうえで無用の長物と言ったとしても過言ではないとも思う。そういう意味で孔雀は伝統に固執したシンボル的存在といえるのではないだろうか?
歴史と伝統から来る障害というのも、十分に批評に値する事柄であると私は思うが、組織に浸かった人は、私のそれに対して否定的な意見を持つことが多い。そういう人たちは、その障害を不利益と思わないし、そうであるばかりかそれが良いと思っている人さえいる。ちょっと性質が異なるかもしれないが、国の機関で働いている官僚などは良い例だろう。しきたりや慣習に逆らうことが、自分の持っている利権を脅かすリスクになりうる事をよく分かっているはずだ。こういう人間を広い意味で伝統に固執したものと私は言いたい。
では
「伝統を守る」
とは一体どういうことだろうかという疑問に私は辿り着く。
伝統とはもっと精神部分に根を下ろすものであるはずである。そこに蓄積された知識、経験、手法といったものは、それを覆う皮膜のようなものに過ぎないのだと。人はそれが見えるからそこに固執するのだと思う。
冒頭で述べた若いフランス料理のシェフは、天才的センスが味に投影されたから三ツ星と評価されたのだが、彼の恩師は、「今までにないフランス料理で、新しい切り口だ」と賞賛している。私は、この言葉の意味するところが、彼が伝統を誠実に守っているということなんだろうなと思った。
「オリジナリティー イコール アイデンティティ」
とも、この若いシェフは言っていた。模倣するだけでは自分の価値がない、ここに自分がいる必要性がないと。この思想があってこそ、伝統は価値があるものになると私は思う。それを理解しないことは、伝統に固執することであり、多様な意味で、自分の成長を絶つという選択でもあるのだと思う。
彼も、彼の恩師も「昨日より今日、今日より明日」と進歩する事を常に心がけている。それを別の意味で表現したのが、文頭の一文だ。
それぞれの組織の制約上、容易に改革改革と掲げることは出来ない。誰かが責任を取る以上そのリスクを負ってやるべき価値があるのかという問いと、今のままでも充足が可能とする定説の中で、後者を選んできたのだと思う。だが、いつの日かそこにメスを入れなくてはいけない日はやってくるはずだ。数百年前は、手紙ぐらいしか伝達方法がなかったのに、今やインターネットでテレビ電話もただ同然にできるようになってしまった。私が幼少の時から比べても、せいぜいもっとも早い伝達手段は、固定電話だ。それが今や、携帯電話を持っていないことが一種の恥とされるほど時代は変化してしまっている。
主張がやや傾き始めてしまったが、言いたいのはどんどん次から次へと挑戦しないのは怠慢だということではない。だが、新しい技術が発展する中で、それを扱うソフトの組織が伝統に固執してしまっては、元も子もない。すくなからずそれらを扱うには進化しないといけないはずだ。だから今までのやり方で本当にいいのかと問い続けなければいけないはずなのだ。
理想と現実の狭間で苦しむ中で、
「いつかは理想のためにリスクを冒さないといけない」
選択肢が必ず来るはずだ。
そのために自分は今どうあらなくてはならないのかしっかりとした意志を持たなくてはならない。
そう、私はこれが言いたかった。
(自分に自信がないとついつい「思う」を多用してしまうw)
というのが、今回の「あなたにとってプロフェッショナルとは?」という質問に対する33歳でフランス料理の三ツ星シェフの答えだった。
NHKのこの番組は、自分のやる気を搾り出すために大変役に立っている。だらだら2時間勉強するよりも、1時間この番組を見て、残り1時間勉強するほうが、その倍の効果はあると思う。
この若い料理職人の方が、
「100年、200年続いている事を、そのまま継承することが、時代の流れから来る要求に対して、疑問を感じる」
というような(正確に覚えていないので曲形していると思うが)ことを言われていた。
私もそれに同感である。
伝統を否定するつもりは全くない。「伝統」と呼称されるまでに、幾人もの先人が試行錯誤を重ねて、自分の仕事に真摯に向き合って、これはこうあるべきという理想をしっかり持って、要求に応じた品質を作り上げて、社会から尊敬と信頼を得てきたのだと思う。だからそれに対して、私は足蹴にするつもりもないし、その点に関して否定する気も全くない。過去の偉人の業績に敬意を評するものである。
しかし、時代が変われば状況も変わる。
大切なのは、変わっていくことに自分の順応していかねばならないということだと思う。
私の地元でも、焼き物が有名で、伝統を引き継いだ職人たちが、信頼を裏切らぬ高品質の陶芸品を作り上げている。この陶芸品というものも元を辿れば、食器類等身近な生活用品を中心に製作していたのだと思う。現在の状況はともあれ、もともとそういった需要の中で芸術まで昇華されていったのだと私は推測している。
仕事の性質によって、今のままではこれ以上のものを作ることはできないという壁は、どこにでもあると思う。そのいった状況の中で、分裂していったものが、芸術と称されるものなのではないだろうか?普段の生活から少しかけ離れた状態で評価されるという点で、この芸術というものを非難してしまうことになるのだが、ここは私の言葉足らずのところである。
一方、実生活において、食器類は、今や植物からも作ることが技術的にも成功し、コストや環境対策の面でも評価される部分がある。私は、広い意味でこの技術的進化を「伝統」と呼びたい。
今まで生きた経験からか、伝統という言葉を聞くたびに何か冷めた目で見てしまう自分がいる。伝統の中から生み出されるものは、社会が評価するのと同じように私が評価できるもののいっぱいあるのだが、それでも伝統というと、冷ややかな視線を抑えることが出来ない。
それは
「伝統に固執する」
という本音が薄っすらと見えてしまうからだと私は思っている。
伝統とまで持ち上げられたものは、それである一定の評価をされると思う。歴史もあるし、その苦悩と努力から導かれた価値あるものがそこにしっかりと存在するからである。しかし、私は「それは過去のものなんじゃないの?」といつも嫌疑の念を抱いてしまう。人の尊厳と価値観に抵触する部分に当たるので、この考えを正面からぶつけることに、私は勇気があるわけでもないし、わずかな理性を持ってそれを抑えることも出来るし、それを否定された時に真っ向と自分はどう考えているのかという強い意志を示すことも出来ないので、これを自分の中に抑えてきたし、これからも軽々に口にする言葉ではないとも思っている。
確かに伝統は強い力を持っていると思う。ノウハウの結晶であるし、多少のことではぶれない強みがある。しかし、そこには柔軟性という面で明らかな乏しさはある。一つの点に特化したことによる他の環境に対する適応力に欠ける弱みがあると思う。
鳥から例を挙げると、孔雀のようなものだろうか?孔雀がどれだけの滞空時間を持って飛行できるかしらないが、求愛行動のために進化したあの尾は、皮肉をもっていえば、実際生き延びていくうえで無用の長物と言ったとしても過言ではないとも思う。そういう意味で孔雀は伝統に固執したシンボル的存在といえるのではないだろうか?
歴史と伝統から来る障害というのも、十分に批評に値する事柄であると私は思うが、組織に浸かった人は、私のそれに対して否定的な意見を持つことが多い。そういう人たちは、その障害を不利益と思わないし、そうであるばかりかそれが良いと思っている人さえいる。ちょっと性質が異なるかもしれないが、国の機関で働いている官僚などは良い例だろう。しきたりや慣習に逆らうことが、自分の持っている利権を脅かすリスクになりうる事をよく分かっているはずだ。こういう人間を広い意味で伝統に固執したものと私は言いたい。
では
「伝統を守る」
とは一体どういうことだろうかという疑問に私は辿り着く。
伝統とはもっと精神部分に根を下ろすものであるはずである。そこに蓄積された知識、経験、手法といったものは、それを覆う皮膜のようなものに過ぎないのだと。人はそれが見えるからそこに固執するのだと思う。
冒頭で述べた若いフランス料理のシェフは、天才的センスが味に投影されたから三ツ星と評価されたのだが、彼の恩師は、「今までにないフランス料理で、新しい切り口だ」と賞賛している。私は、この言葉の意味するところが、彼が伝統を誠実に守っているということなんだろうなと思った。
「オリジナリティー イコール アイデンティティ」
とも、この若いシェフは言っていた。模倣するだけでは自分の価値がない、ここに自分がいる必要性がないと。この思想があってこそ、伝統は価値があるものになると私は思う。それを理解しないことは、伝統に固執することであり、多様な意味で、自分の成長を絶つという選択でもあるのだと思う。
彼も、彼の恩師も「昨日より今日、今日より明日」と進歩する事を常に心がけている。それを別の意味で表現したのが、文頭の一文だ。
それぞれの組織の制約上、容易に改革改革と掲げることは出来ない。誰かが責任を取る以上そのリスクを負ってやるべき価値があるのかという問いと、今のままでも充足が可能とする定説の中で、後者を選んできたのだと思う。だが、いつの日かそこにメスを入れなくてはいけない日はやってくるはずだ。数百年前は、手紙ぐらいしか伝達方法がなかったのに、今やインターネットでテレビ電話もただ同然にできるようになってしまった。私が幼少の時から比べても、せいぜいもっとも早い伝達手段は、固定電話だ。それが今や、携帯電話を持っていないことが一種の恥とされるほど時代は変化してしまっている。
主張がやや傾き始めてしまったが、言いたいのはどんどん次から次へと挑戦しないのは怠慢だということではない。だが、新しい技術が発展する中で、それを扱うソフトの組織が伝統に固執してしまっては、元も子もない。すくなからずそれらを扱うには進化しないといけないはずだ。だから今までのやり方で本当にいいのかと問い続けなければいけないはずなのだ。
理想と現実の狭間で苦しむ中で、
「いつかは理想のためにリスクを冒さないといけない」
選択肢が必ず来るはずだ。
そのために自分は今どうあらなくてはならないのかしっかりとした意志を持たなくてはならない。
そう、私はこれが言いたかった。
(自分に自信がないとついつい「思う」を多用してしまうw)
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