苦しむこと。

2008年1月3日 日常
あと2年の歳月で30になるとしになって、我思う。

悩むことに勝る苦しみは無い。

肉体的苦痛よりも、
精神的苦痛よりも、
脅迫的苦痛よりも、
社会制裁から来る苦痛よりも、
悩むことは実に苦しいと思う。

昨日は、友人とのフットサルをして、
珍しく筋肉痛が無かったこともあり、
久しぶりにジョギングをした。

渋滞の車と同じ程度のペースだったと思うが、
1時間以上したのに、肉体的苦痛は無い。
なぜか非常に体の重さを感じなかった。
いつもは70kgを行ったりきたりしてるのに。

ラジオから流れている声を聞いていたせいか、
ペースが今の体力にちょうどよかったためか、
気温がよかったのか、風も弱かったためか、
そんなことはどうでもいいのだが、
心は非常に心地よい。

何も考えていないからだったとおもう。

何も考えていないということは、
何かに夢中になっているということと
非常に似ていると思う。

違うと事を挙げれば、後者は何かをするために
無心に近い状態なのだと思う。

何かについて考える時ほど、自分は苦しむことはないと
今までの経験でそう思える。

そもそもその考えている対象というのは、
自分自身についての事なのだが、
これは自分がナルシストであるというのではなく、
簡単な哲学に近いものだと思う。

「俺は何のために生まれてきたのか」
「今のままの状態でいいのか」
「もっと将来の事を考えなくていいのか」

俺は常に悩んで、考えていたと思う。

何もすることが無かったか、
もしくは、
今していることに対して疑問を感じていたからだ。

一人で走ることほど単純なことはないし、
目的もはっきりしているので、考えることはない。
日が落ちてきたので、Uターンしようかと思うぐらい。

今日は人生はそんな単純なもんなんじゃないかと思った。

まず自分の立てた計画が100%うまくいくはずが無いのだから。
多かれ少なかれぶれはある。それがいいものであろうと、
わるいものであろうと、完璧ということはありえない。
むしろそれがあってしまっては、
自分がそれをする意味は薄れてしまうとさえ思う。

つぎに、ある程度先の事を目標にしようとしても、
それを終わりにしてしまっては、人間が100ぐらいまでも
生きる必要はない。

選択肢はいろいろある。

間違った選択をしてしまうことはあるだろうが、
俺が今避けたいのは、自分の選択肢を限定することだ。
やりたいこともあるし、将来の目標もあるが、
王道にも邪道にもなる器用さが必要だと思う。
それが選択肢を広げること、自分の可能性を広げること
なのだとおもう。

そんなこと言ったって、一人の人間が出来ることなんて
高が知れている。

だから俺は今は悩まないことがいいんだろうとおもう。
悩んでいるということは、どこか自分に足りないこともあるだろうし、
もしかしたらそれが自分にあっていないのかもしれない。
だったら自分に適切なものを見つければいい。

安きに流れても仕方がないというのではなくて、
無駄に考えるぐらいなら、今出来る事を出来るようにしたほうが、
将来自分の足しになると思う。

ここまで書いて怖いのは、
間違いなく自分の目が狭くなる危険性をはらんでいることだと思う。

、、、

はは。
こんな事を書いている自体悩んでいるということかw。

まあ、これまでの人生経験ではこんなもんだろう。
将来これを読みかえしとき、俺はまだまだ若かった、
あの年にしては的を得た事を言っているか、
是非前者であって欲しいものだ。

今日は、走ってて
「なやんでいるのがもったいないな」
と思っただけでした。

こんなでも、ちょっとは成長した気がしたね。
というか気が楽になったというか。

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